浄運寺の武藤塚の碑
「野盗塚物語」 に登場する
『町田の民話と伝承』より
先日、記事で『町田の民話と伝承』を読み直していると書いたので。
今回は、その関連の場所を一つ。
法要山浄運寺は原町田にあるお寺で、日明が天正5年(1577)に開創、矢部淡路を開基とするといいます。
境内には自由民権運の際の政党対立による襲撃で亡くなった大須賀明のお墓と。
神道無念流の剣士であり、100人以上の弟子がいたという長岡織部のお墓があるのですが。
その横に、このような塚がありまして。
塚自体は〈武藤塚〉というのですが。
伝承では「野盗塚物語」に由来する塚で、その塚は〈武藤塚〉〈野盗塚〉の他〈経塚〉とも呼ばれており、塚は実際には旧町田警察署があったあたりに存在していたのですが。
現在は、この浄運寺の境内に塚があったことを示す石碑がこうしてあります。
この「野盗塚物語」というものは。
武藤家が名主だった時、御用長物を預かってくれと武士の一団に頼まれたが、その長物の中に人が隠れていたので、出られないように重しをして、翌日に長物を運び出した。
後日、5~6人の武士が復讐の為に金子の借用を装って武藤家を訪ねてきたが、武藤家では警戒していたので野盗は一網打尽に討たれた。
そして野盗の亡きがらを弔い、塚尾を築いて供養した……というもので。
詳しい話は『町田の民話と伝承 第一集』にあるのですが。
仮にこの話を現代の特に子供にする場合、例えば物語中に登場する「長持」や「三宝」というのがどういうものかや。
金子を貸す際に出した白銀二十五両とはどの程度の価値だったのかなどを紹介できたらと思いました。
また、そもそもこの野盗は一体、どこから来たのか。
もし周辺でも何か悪事を働いていたのなら、この時期にこういった野盗の話が他にも残っていないのか……などが個人的には気になっています。
さて。
このような形で現在は民話や伝承を調べているのですが。
この時期は暑いので、実際に舞台となった場所にどの程度出かけていこうかというのはあります。
何せ今回、浄運寺に行った際。
猫が鐘の下の日陰で涼んでいたぐらいなので。